夏目漱石『こころ』2  (3月25日)
   私は卑怯でした。そうして多くの卑怯な人と同じ程度に於て煩悶したのです。遺憾ながら、その時の私には、あなたというものが殆んど存在していなかったと云っても誇張ではありません。一歩進めていうと、あなたの地位、あなたの糊口の資、そんなものは私にとってまるで無意味なのでした。どうでも構わなかったのです。私はそれどころの騒ぎでなかったのです。私は状差へ貴方の手紙を差したなり、依然として腕組をして考え込んでいました。宅に相応の財産があるものが、何を苦しんで、卒業するかしないのに、地位々々といって藻掻き廻るのか。私は寧ろ苦々しい気分で、遠くにいる貴方にこんな一瞥を与えただけでした。私は返事を上げなければ済まない貴方に対して、言訳のためにこんな事を打ち明けるのです。あなたを怒らすためにわざと無躾な言葉を弄するのではありません。私の本意は後を御覧になれば能く解る事と信じます。とにかく私は何とか挨拶すべきところを黙っていたのですから、私はこの怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思います。

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