センター試験長文問題全訳


2018年センター試験第7問

 ロボットには2つのタイプがある。ずっと以前から工場で見られる道具としてのロボットと、小説や映画の中だけに存在する仲間としてのロボットである。今日、この仲間としてのロボットが我々の生活の中、特にバーチャルな形をとって、我々の携帯電話の中に現れてきている。そうしたロボットは単なる役に立つものとして作られたのではなく、我々の相手をするために作られたのである。
 このような道具としてのロボットと仲間としてのロボットの対立は、カレル・チャペックの戯曲の中心的テーマのである。「ロボット」という言葉が初めて使われたのが、そもそもこの戯曲においてなのである。著者は作品の中で、学者のロッサムと著者の分身である科学者の甥とを対比する。ロッサムは人間に似せてロボットを作ろうとする。彼は自由で我々と同じような存在を作るために、感情や個性をロボットに与えようとする。反対に、彼の甥は人間の代わりに仕事をするように考えられた単なる機械を作ろうとする。戯曲では、人間とロボットの関係について多くの疑問が提示される。その疑問の一つとは、今日の我々にとって特に重要である。それは、人間はロボットを管理すべきなのか、ロボットは人間の奴隷なのか、ということである。
 確かに我々はあらゆる種類のロボットと暮らしている。自動で掃除をする掃除機、病院の自動機械、知的なオモチャなどが我々の周りにある。それらの中で、個性を持っているようなものもある。たとえば、子供や若者が携帯電話で遊ぶバーチャルな動物である。そのゲームの中では、人は「動物」の飼い主となり、「動物」に責任を持つ。毎日、多くの時間をそうした「動物」に費やすのだ。「動物」に餌をやらなければならないし、洗ったりもする。機嫌が悪い時は叱らなければならない。ところが、そのバーチャル動物はつねに人が言うとおりには行動しない。時には予想外な振る舞いもする。だからそうした「動物」はイヌやネコといった仲間としての動物のように、自分自身の意志を持っているように思われるのだ。
 従ってロボットが我々の仲間となるためには、確かな自由を表現することが必要なのである。近い将来、人間は次第に、人間にとって感情のない単なる奴隷ではなく、情緒を示す仲間である機械と共に暮らすことになるだろう。


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